2008年の難民認定申請数は前年の2倍にあたる1599人に上り、難民認定制度が始まった1982年以来、過去最多を記録したことが30日、法務省のまとめでわかった。
08年中に難民と認定されたのは57人で、難民とは認定されなかったが、人道上の理由などから在留を特別に認めた人は過去最多の360人となった。
08年の申請者を国籍別で見ると、ミャンマーが979人で61%を占めた。ミャンマーでは2007年秋以降、僧侶を中心とした反政府デモに対する武力弾圧が行われるなど政情が不安定となっていることなどが影響したとみられる。2番目はトルコの156人で、スリランカの90人が続いた。
申請者は96年から毎年100人~400人台で推移していたが、2006年954人、07年816人と、ここ数年は急増している。これに対し、08年に審査などの処理ができたのは918人にとどまった。申請中の外国人に対しては、一定の条件を満たせば日本に滞在することを認めている。申請から認定までの期間は平均で約1年8か月となっている。
「日本語ができる外国人は、どんどん日本に入ってきてもらったらいいじゃないか」――。
きっかけは高村正彦外相の一声だった。外務省と法務省は日本で長期滞在を希望している外国人の入国審査や在留期限の延長にあたり、日本語がどれだけできるかを考慮する制度を設ける検討を始めた。年明けから、課長級の会合を3回開いた。
ある外務省幹部は「『日本語ができないと入国できない』というのではなく、『日本語がある程度できるから、他の要件を低くして入国を認める』というような方向に持っていきたい」という。イメージするのはIT(情報技術)や娯楽・芸能といった専門的・技術的分野での就労が目的の場合で、一定の技術や才能がなければ日本への滞在を認めないが、日本語能力があれば条件を緩和してはどうかというものだ。
外務省には海外での日本語普及に役立てるという理屈もある。同省は独立行政法人の国際交流基金を通じ、海外での日本語普及事業に取り組んでいる。この幹部は「有能な外国人が日本語を学ぼうと思う動機づけをすれば、日本語普及に一役買える」と説明。政府は日本語の学習拠点を来年度中に現在の7倍にあたる約70カ所に拡充するが、今後はさらに増やす方針だ。
ただ、ことはそう単純ではない。「外国人への管理を強めたい法務省と、必ずしもそうではない外務省。日本語能力を重視すると言っても同床異夢だ。議論がまとまるのか」。国内で外国人対象の日本語教育事業を所管する文化庁は指摘する。
制度の検討を進める外務省領事局外国人課によると、事務レベルの議論の出発点は在日外国人問題にあったという。1990年の出入国管理・難民認定法(入管法)改正により、中南米などから多くの日系人の2、3世が日本にやってきて、大半は単純労働の職に就いた。
仕事場である工場の周辺に住んで、母国語が通じるコミュニティの中にいれば、日本語ができなくても暮らしていける。半面、周辺住民との交流は不足しがちになり「昼日中から学校に通っていない子どもたちがたむろしている」「ゴミ出しの日を守れない」など、不安や不満を生んでいる。「言葉の壁」によって生じる混乱の芽をどう摘んでいくかが、法務省などの関心事だ。
日本国内に滞在届を出している外国人は2005年末までに200万人を突破し、約10年間で65万人も増えた。外相は「前から言われていたのに、検討がちんたらちんたらしていた。前に進めたい」と意欲を示すが、ことの本質は外国人労働者の受け入れ問題だ。外務、法務両省が「日本語能力」に限った具体案をまとめたとしても、経済産業省や厚生労働省、経済界や労働組合など、関係省庁や団体との調整というハードルが待ち構えている。法相の経験者でもあり、外国人労働者を取り巻く事情にも通じた高村氏は複雑なパズルをどう解くのだろうか。
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約1400の金融機関の口座
Thu 22 Jan’09
日本郵政グループのゆうちょ銀行の決済システムが5日、全国の民間金融機関の送金システム(全銀システム)に接続した。また、同日は上場企業約4千社の株券が無効になり、電子データに置き換わった。いずれも目立ったトラブルは起きなかった。
ゆうちょ銀は5日から、約1400の金融機関の口座と資金をやり取りする振り込みができるようになった。1日に最大30万件の振り込みを想定。数カ月前からテストを繰り返してきた。
ゆうちょ銀の口座に振り込むには新たな口座番号が必要になる。ただ、ゆうちょ銀の約1億1千万口座のうち、新番号の記載が済んだのは2割弱。今後も郵便局の貯金窓口で通帳を出せば、新番号を記載できる。ゆうちょ振込お問合せセンター(0120・253811)も引き続き、24時間相談に応じる。
一方、株券電子化もおおむね無難にスタートした。株式の電子データは証券会社などを通して証券保管振替機構(通称・ほふり)が管理。ほふりと証券会社などをつなぐシステムが一新された。ほふりによると、決済処理で一時遅れが出たが、システム全体への影響はなかったという。
電子化によって、株券の発行コストの削減や取引効率化が期待されている。ただ、回収されていない株券を使った詐欺事件や、株主の権利や売買を巡るトラブルが生じる可能性もあり、ほふりや日本証券業協会は注意を呼びかけている。
ゆうちょ銀は5日から、約1400の金融機関の口座と資金をやり取りする振り込みができるようになった。1日に最大30万件の振り込みを想定。数カ月前からテストを繰り返してきた。
ゆうちょ銀の口座に振り込むには新たな口座番号が必要になる。ただ、ゆうちょ銀の約1億1千万口座のうち、新番号の記載が済んだのは2割弱。今後も郵便局の貯金窓口で通帳を出せば、新番号を記載できる。ゆうちょ振込お問合せセンター(0120・253811)も引き続き、24時間相談に応じる。
一方、株券電子化もおおむね無難にスタートした。株式の電子データは証券会社などを通して証券保管振替機構(通称・ほふり)が管理。ほふりと証券会社などをつなぐシステムが一新された。ほふりによると、決済処理で一時遅れが出たが、システム全体への影響はなかったという。
電子化によって、株券の発行コストの削減や取引効率化が期待されている。ただ、回収されていない株券を使った詐欺事件や、株主の権利や売買を巡るトラブルが生じる可能性もあり、ほふりや日本証券業協会は注意を呼びかけている。
— posted by サイト管理者 at 07:04 pm
開村中の6日間
Sat 10 Jan’09
東京タワーを仰ぐ森に炊き出しの湯気が立つ。年末年始、霞が関・日比谷公園にできた「年越し派遣村」。派遣切りなどで職や住居を失った500人を支えたのは、延べ1700人に上るボランティアだった。
開村中の6日間、全国から野菜やコメが届き、カンパは2300万円を超えた。労働、医療、生活相談に加え、散髪コーナーまでできた。「新年を少しでも明るく」と歌や踊りを披露するパフォーマーや、「台湾大地震での日本の支援に恩返しを」と台湾の慈善団体も参加。村の様子は海外メディアも報じた。
ベニヤ板を広げた臨時の厨房(ちゅうぼう)で、私もボランティアの輪に加わった。報道で知り北関東から駆けつけた会社員、父親に付いてきた中学生、かっぽう着と包丁持参で来た主婦……。名も知らぬ者どうしの絶妙な連係プレーで調理が進む。大鍋をかき回し、若い男性が言った。「偽善だと言う人もいた。でも僕は人のためというより、自分がやりたくて来たんです」
ちょうど14年前の阪神大震災。あの時全国から集まった大勢の若者も、テレビが映すがれきと炎の街を見て「体が動いた」と言っていた。今回の雇用危機は失政による人災だが、あらがえない力が個人の生活をなぎ倒す悲惨さは同じだ。
なお強い寒波が雇用を襲う。政治の動きが鈍ければ、民がもっと背中を押すしかない。最後のセーフティーネットは、人の思いなのかもしれない。
派遣村が撤収した5日。「ありがたい気持ちでいっぱい。もう少し頑張ってみます」。50代の男性失業者が力強い言葉を残し、公園から国会へと向かうデモの波に加わっていった。
【関連記事】 社説:年越し派遣村 今度こそ政治の出番だ社説:非正規切り 企業の責任はどこへ行った六本木包丁男:「派遣切れ、うっぷんたまった」と供述詐欺:「派遣解雇」の41歳男、無銭飲食容疑で逮捕 静岡派遣切り:8労組が経団連に公開質問状 受け取りは拒否
開村中の6日間、全国から野菜やコメが届き、カンパは2300万円を超えた。労働、医療、生活相談に加え、散髪コーナーまでできた。「新年を少しでも明るく」と歌や踊りを披露するパフォーマーや、「台湾大地震での日本の支援に恩返しを」と台湾の慈善団体も参加。村の様子は海外メディアも報じた。
ベニヤ板を広げた臨時の厨房(ちゅうぼう)で、私もボランティアの輪に加わった。報道で知り北関東から駆けつけた会社員、父親に付いてきた中学生、かっぽう着と包丁持参で来た主婦……。名も知らぬ者どうしの絶妙な連係プレーで調理が進む。大鍋をかき回し、若い男性が言った。「偽善だと言う人もいた。でも僕は人のためというより、自分がやりたくて来たんです」
ちょうど14年前の阪神大震災。あの時全国から集まった大勢の若者も、テレビが映すがれきと炎の街を見て「体が動いた」と言っていた。今回の雇用危機は失政による人災だが、あらがえない力が個人の生活をなぎ倒す悲惨さは同じだ。
なお強い寒波が雇用を襲う。政治の動きが鈍ければ、民がもっと背中を押すしかない。最後のセーフティーネットは、人の思いなのかもしれない。
派遣村が撤収した5日。「ありがたい気持ちでいっぱい。もう少し頑張ってみます」。50代の男性失業者が力強い言葉を残し、公園から国会へと向かうデモの波に加わっていった。
【関連記事】 社説:年越し派遣村 今度こそ政治の出番だ社説:非正規切り 企業の責任はどこへ行った六本木包丁男:「派遣切れ、うっぷんたまった」と供述詐欺:「派遣解雇」の41歳男、無銭飲食容疑で逮捕 静岡派遣切り:8労組が経団連に公開質問状 受け取りは拒否
— posted by サイト管理者 at 02:40 pm
野村忍介指揮諸隊
Sat 27 Dec’08
衝背軍の熊本入城
4月13日、別働第二旅団の山川浩中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て、機逸すべからずと考え、兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて熊本城目指して突入し、遂に城下に達した。城中皆蘇生した思いで喜んだが、後に山川中佐は作戦を無視した独断専行を譴責されたといわれる。
[編集] 薩軍の八代急襲
このころ、薩軍は田原方面での戦闘の激化に伴って兵力が不足してきたため、桐野の命で淵辺群平・別府晋介・辺見らが鹿児島に戻って新たな兵力の徴集にあたった。3月25、26日の両日で1500名ほどを徴兵したものの、官軍が八代に上陸し、宇土から川尻へと迫っていたため、この兵力は熊本にいる薩軍との合流ができなかった。よって、この部隊は人吉から下って、八代から熊本へ進軍中の官軍を背後から攻撃し、退路を断って孤立させるという作戦のもとで行動することになった。
4月4日、人吉から球磨川に沿い、或いは舟で下って八代南郊に出た薩軍は、まず坂本村の官軍を攻撃して敗走させたのを皮切りとして、5、6日と勝利を収め、八代に迫ったが、7、8日の官軍の反撃によって八代に至ることができず、再び坂本付近まで押し戻された。4月11日、再び薩軍は八代を攻撃。疲労もあって官軍が一時敗退したが、13日に官軍に援軍が投入され、薩軍・官軍ともに引かず、4月17日までこの状態が続いた。17日、一箇大隊に薩軍の右翼をつかせる作戦が成功して官軍が有利となり、薩軍は敗走した。この間の萩原堤での戦いのとき協同隊の宮崎八郎が戦死し、別府晋介が足に重傷を負った。
[編集] 城東会戦
桐野利秋は4月14日、熊本隊大隊長池辺吉十郎の建議により、二本木の本営を木山に移した。同時に鹿子木の中島健彦、鳥巣の野村忍介に急使を送って川尻の敗戦を報せ、適宜兵を木山に引き揚げるように伝えた。薩軍諸隊が熊本城・植木から逐次撤退してきた4月17日、桐野らは本営木山を中心に、右翼は大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は御船に亘る20㎞余りの新たな防衛線を築き、ここで南下する官軍を迎え撃ち、官軍を全滅させる作戦をとることにした。この時に薩軍が本営の木山(益城町)を囲む形で肥後平野の北から南に部署した諸隊は以下のような配置をしていた。(計約8,000名)
大津 ─ 野村忍介指揮諸隊
長嶺 ─ 貴島清指揮貴島隊及び薩軍6箇中隊
保田窪─ 中島健彦指揮5箇中隊及び福島隊
健軍 ─ 河野主一郎指揮5箇中隊及び延岡隊(約750名)
木山 ─ 薩軍本営
御船 ─ 坂元仲平指揮20箇中隊(計約1,300名)
対する官軍も、山県参軍らが熊本城でおこなった軍議で各旅団を次のように部署した。(計約30,000名)
片川瀬 ─ 第三旅団
竹迫 ─ 第一旅団
立田山 ─ 別働第五旅団
熊本城東部 ─ 熊本鎮台
熊本城 ─ 第四旅団(予備軍として)
川尻 ─ 別動第一旅団
隈庄 ─ 別動第二旅団
堅志田 ─ 別動第三旅団
八代 ─ 別動第四旅団
薩軍最右翼の大津へは野村忍介指揮の部隊が配備された。4月20日黎明、第一・第二・第三旅団は連繋して大津街道に進撃したが、野村の諸隊は奮戦してこれを防ぎ、そのまま日没に及んだ。
4月19日、熊本鎮台・別働第五旅団・別働第二旅団は連繋して健軍地区の延岡隊を攻めた。延岡隊は京塚を守って健闘したが、弾薬が尽きたので後線に退き、替わって河野主一郎の中隊が逆襲して官軍を撃破した。官軍は別働第一旅団からの援軍を得たが、苦戦をいかんともしがったかった。官軍はさらに援軍を仰いでやっとのことで薩軍の2塁を奪ったが、薩軍優位のまま日没になった。
別働第五旅団の主力は4月20日、保田窪地区の薩軍を攻めた。午後3時には猛烈な火力を集中して薩軍の先陣を突破して後陣に迫ったが、中島が指揮する薩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなった。腹背に攻撃を受けた官軍は漸く包囲を脱して後退した。この結果、別働第五旅団と熊本鎮台の連絡は夜になっても絶たれたままになった。
長嶺地区の貴島は抜刀隊を率いて勇進し、別働第五旅団の左翼を突破して熊本城へ突入する勢いを見せた。熊本城にいた山県参軍は品川弥二郎大書記官からの官軍苦戦の報告と大山巌少将からの薩軍が熊本に突出する虞れがあるとの報告を聞き、急遽熊本城にあった予備隊第四旅団を戦線に投入するありさまであった。
理解できております。
4月13日、別働第二旅団の山川浩中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て、機逸すべからずと考え、兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて熊本城目指して突入し、遂に城下に達した。城中皆蘇生した思いで喜んだが、後に山川中佐は作戦を無視した独断専行を譴責されたといわれる。
[編集] 薩軍の八代急襲
このころ、薩軍は田原方面での戦闘の激化に伴って兵力が不足してきたため、桐野の命で淵辺群平・別府晋介・辺見らが鹿児島に戻って新たな兵力の徴集にあたった。3月25、26日の両日で1500名ほどを徴兵したものの、官軍が八代に上陸し、宇土から川尻へと迫っていたため、この兵力は熊本にいる薩軍との合流ができなかった。よって、この部隊は人吉から下って、八代から熊本へ進軍中の官軍を背後から攻撃し、退路を断って孤立させるという作戦のもとで行動することになった。
4月4日、人吉から球磨川に沿い、或いは舟で下って八代南郊に出た薩軍は、まず坂本村の官軍を攻撃して敗走させたのを皮切りとして、5、6日と勝利を収め、八代に迫ったが、7、8日の官軍の反撃によって八代に至ることができず、再び坂本付近まで押し戻された。4月11日、再び薩軍は八代を攻撃。疲労もあって官軍が一時敗退したが、13日に官軍に援軍が投入され、薩軍・官軍ともに引かず、4月17日までこの状態が続いた。17日、一箇大隊に薩軍の右翼をつかせる作戦が成功して官軍が有利となり、薩軍は敗走した。この間の萩原堤での戦いのとき協同隊の宮崎八郎が戦死し、別府晋介が足に重傷を負った。
[編集] 城東会戦
桐野利秋は4月14日、熊本隊大隊長池辺吉十郎の建議により、二本木の本営を木山に移した。同時に鹿子木の中島健彦、鳥巣の野村忍介に急使を送って川尻の敗戦を報せ、適宜兵を木山に引き揚げるように伝えた。薩軍諸隊が熊本城・植木から逐次撤退してきた4月17日、桐野らは本営木山を中心に、右翼は大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は御船に亘る20㎞余りの新たな防衛線を築き、ここで南下する官軍を迎え撃ち、官軍を全滅させる作戦をとることにした。この時に薩軍が本営の木山(益城町)を囲む形で肥後平野の北から南に部署した諸隊は以下のような配置をしていた。(計約8,000名)
大津 ─ 野村忍介指揮諸隊
長嶺 ─ 貴島清指揮貴島隊及び薩軍6箇中隊
保田窪─ 中島健彦指揮5箇中隊及び福島隊
健軍 ─ 河野主一郎指揮5箇中隊及び延岡隊(約750名)
木山 ─ 薩軍本営
御船 ─ 坂元仲平指揮20箇中隊(計約1,300名)
対する官軍も、山県参軍らが熊本城でおこなった軍議で各旅団を次のように部署した。(計約30,000名)
片川瀬 ─ 第三旅団
竹迫 ─ 第一旅団
立田山 ─ 別働第五旅団
熊本城東部 ─ 熊本鎮台
熊本城 ─ 第四旅団(予備軍として)
川尻 ─ 別動第一旅団
隈庄 ─ 別動第二旅団
堅志田 ─ 別動第三旅団
八代 ─ 別動第四旅団
薩軍最右翼の大津へは野村忍介指揮の部隊が配備された。4月20日黎明、第一・第二・第三旅団は連繋して大津街道に進撃したが、野村の諸隊は奮戦してこれを防ぎ、そのまま日没に及んだ。
4月19日、熊本鎮台・別働第五旅団・別働第二旅団は連繋して健軍地区の延岡隊を攻めた。延岡隊は京塚を守って健闘したが、弾薬が尽きたので後線に退き、替わって河野主一郎の中隊が逆襲して官軍を撃破した。官軍は別働第一旅団からの援軍を得たが、苦戦をいかんともしがったかった。官軍はさらに援軍を仰いでやっとのことで薩軍の2塁を奪ったが、薩軍優位のまま日没になった。
別働第五旅団の主力は4月20日、保田窪地区の薩軍を攻めた。午後3時には猛烈な火力を集中して薩軍の先陣を突破して後陣に迫ったが、中島が指揮する薩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなった。腹背に攻撃を受けた官軍は漸く包囲を脱して後退した。この結果、別働第五旅団と熊本鎮台の連絡は夜になっても絶たれたままになった。
長嶺地区の貴島は抜刀隊を率いて勇進し、別働第五旅団の左翼を突破して熊本城へ突入する勢いを見せた。熊本城にいた山県参軍は品川弥二郎大書記官からの官軍苦戦の報告と大山巌少将からの薩軍が熊本に突出する虞れがあるとの報告を聞き、急遽熊本城にあった予備隊第四旅団を戦線に投入するありさまであった。
理解できております。
— posted by サイト管理者 at 05:52 pm
気風を重んずる
Fri 12 Dec’08
徳川幕府外様 3万石→2万7千石
以久(ゆきひさ)〔従五位下・右馬頭〕
忠興(ただおき)〔従五位下・右馬頭〕
久雄(ひさたか)〔従五位下・右馬頭〕
忠高(ただたか)〔従五位下・飛騨守〕
久寿(ひさとし)〔従五位下・式部少輔〕
惟久(これひさ)〔従五位下・淡路守〕 分与により2万7千石
忠雅(ただまさ)〔従五位下・加賀守〕
久柄(ひさもと)〔従五位下・淡路守〕
忠持(ただもち)〔従五位下・淡路守〕
忠徹(ただゆき)〔従五位下・筑後守〕
忠寛(ただひろ)〔従五位下・淡路守〕
※久寿を藩主として数えない史料もある。
[編集] 家臣
この記事は、下記のページに内容を分割しています。このテーマに関する情報については、それぞれのページをご参照ください。
薩摩藩家臣
[編集] 薩摩藩の郷中制度
司馬遼太郎は、薩摩藩の郷中制度の原型は、東南アジアから日本列島の農山漁村に多く見られた若衆組の習俗に由来すると推測した。その傍証の一つに、村落体制下において郷中のトップである郷中頭の権威が高いことをあげる。すなわち、一般的に若衆組のトップである若衆頭は、村落内で大きな発言力を有し、時に年寄りや村落の首長さえも遠慮するほどであった。この点郷中制度と若衆組習俗は共通する。この性格は中国・朝鮮の厳格な儒教文化圏ではありえないことだったも指摘した。この郷中の性格は、後の私学校に引き継がれた。司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べる。西南戦争の発端になった私学校生徒の暴発に際し、西郷隆盛が反対しつつも、最後は不本意ながら反乱を率いていかざるを得なくなった遠因は、このような郷中制度を機軸とした薩摩文化の観点から読み解けると司馬は述べている[3]。
幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この郷中制度を中心に男色が盛んに称揚され、女や女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された(土佐や会津などにもこれと類似した制度や傾向があったといわれる)。後代まで鹿児島で男尊女卑の伝統が守られ続いているのはその影響であると考えられている。
[編集] 脚注
^ 但し「藩」という概念は幕末の廃藩置県で出来たものであり、定説は家が主体の島津家の領地とされ、さらに古い時代(鎌倉時代)に遡る守護の時代からの領地が継続的に存在している。従って、通説は江戸幕府以降の幕藩体制の強調であり、他藩との均衡を図るために出た説ともいえる。
^ 村野守治『島津斉彬のすべて 新装版』 新人物往来社、2007年、ISBN 978-4-404-03505-9
^ 司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」『古住今来』日本書籍株式会社、1979年
[編集] 関連項目
ウィクショナリーに薩摩藩の項目があります。藩の一覧
隼人
千本松原
近思録崩れ
お由羅騒動
島津久光
太刀流
示現流
古示現流
小示現流
薬丸自顕流
直心影流剣術
薩長土肥
大円寺
天璋院
郷士
作成してください。
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忠興(ただおき)〔従五位下・右馬頭〕
久雄(ひさたか)〔従五位下・右馬頭〕
忠高(ただたか)〔従五位下・飛騨守〕
久寿(ひさとし)〔従五位下・式部少輔〕
惟久(これひさ)〔従五位下・淡路守〕 分与により2万7千石
忠雅(ただまさ)〔従五位下・加賀守〕
久柄(ひさもと)〔従五位下・淡路守〕
忠持(ただもち)〔従五位下・淡路守〕
忠徹(ただゆき)〔従五位下・筑後守〕
忠寛(ただひろ)〔従五位下・淡路守〕
※久寿を藩主として数えない史料もある。
[編集] 家臣
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薩摩藩家臣
[編集] 薩摩藩の郷中制度
司馬遼太郎は、薩摩藩の郷中制度の原型は、東南アジアから日本列島の農山漁村に多く見られた若衆組の習俗に由来すると推測した。その傍証の一つに、村落体制下において郷中のトップである郷中頭の権威が高いことをあげる。すなわち、一般的に若衆組のトップである若衆頭は、村落内で大きな発言力を有し、時に年寄りや村落の首長さえも遠慮するほどであった。この点郷中制度と若衆組習俗は共通する。この性格は中国・朝鮮の厳格な儒教文化圏ではありえないことだったも指摘した。この郷中の性格は、後の私学校に引き継がれた。司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べる。西南戦争の発端になった私学校生徒の暴発に際し、西郷隆盛が反対しつつも、最後は不本意ながら反乱を率いていかざるを得なくなった遠因は、このような郷中制度を機軸とした薩摩文化の観点から読み解けると司馬は述べている[3]。
幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この郷中制度を中心に男色が盛んに称揚され、女や女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された(土佐や会津などにもこれと類似した制度や傾向があったといわれる)。後代まで鹿児島で男尊女卑の伝統が守られ続いているのはその影響であると考えられている。
[編集] 脚注
^ 但し「藩」という概念は幕末の廃藩置県で出来たものであり、定説は家が主体の島津家の領地とされ、さらに古い時代(鎌倉時代)に遡る守護の時代からの領地が継続的に存在している。従って、通説は江戸幕府以降の幕藩体制の強調であり、他藩との均衡を図るために出た説ともいえる。
^ 村野守治『島津斉彬のすべて 新装版』 新人物往来社、2007年、ISBN 978-4-404-03505-9
^ 司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」『古住今来』日本書籍株式会社、1979年
[編集] 関連項目
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隼人
千本松原
近思録崩れ
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古示現流
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